米岡芝居ロゴ
座員紹介

米岡芝居の歴史

米岡芝居の祖は3代目助高屋高助?

3代目助高屋高助は登米市迫町大網に生まれの宇藤留蔵(うとうとめぞう)と言われてお り、
留蔵は18歳の時に地方巡業に来た上方歌舞伎の助高屋の芸に惚れ込み
、一座につい て行き、上方で女形の修行をしたそうです。
上方歌舞伎で脚光を浴びた後、目が悪くなり 故郷に戻ってきた高助ですが、
村人から頼まれ歌や踊りを教えるようになりました。

1845年(弘化2年)高助が座長となり弟子や村人たちと共に『寿座』を結成。これが米岡芝居の祖になります。

米岡芝居写真 米岡芝居の写真

お寺の本堂を舞台に

米岡芝居の公演が行われたのは登米市米山町の専興寺というお寺の境内でした。
本堂を楽 屋にし境内に舞台をこしらえて、脚光を浴びていた時代もあったそうです。
当時は秋祭り の度に「義経千本桜」などが上演され、
『寿座』はいつしか『米岡芝居』と呼ばれ村人た ちの貴重な娯楽となりました。
高助が亡くなった後も残された座員によって伝統芸能は引 き継がれたのですが、
明治から大正至る頃には時代の流れに押し流されて衰退していきま した。

専興寺 専興寺の境内

ボロボロの『米岡芝居』を再興

大正10年頃、岩手出身の奥山武雄は縁あって専興寺の住職となり、
かつて脚光浴びた『米岡芝居』の存在を知ることになります。
ボロ布同然の舞台衣装に錆びついた金具、色がはげた小道具しか残っておらず とても公演が出来る状態ではなかったそうです。
しかしもともと義太夫好きの武雄はこれをほうっておけず、 自ら金策に走り、『米岡芝居』復興に尽力しました。
当時のお金で170円という大金を借りたと言われていますが、 現在に換算すると170万円ほどの大金です。
幸運にも不出世の太夫であった三浦勘助を座員に引き入れ 『米岡芝居』見事な復活を遂げました。

米岡芝居の写真

人々の心に残る郷土芸能

昭和12年、名太夫であった三浦勘助が亡くなると、『米岡芝居』は舵を失ったかのように急速に衰退していきました。
また時代も戦争へと突き進み、とても芝居を見るという心のゆとりの持てる時代ではなくなったのです。
専興寺にある墓石には“演”の文字が付けられた戒名があり、
それが『米岡芝居』で活躍していた役者だと言われています。
『米岡芝居』に関する記録はそれほど多くはなく、事実は明白ではないのですが、
その言葉が失われずに現代に引き継がれたということは、人々の心の中に“郷土芸能の魂”が残っていることを物語っています。

そして2度目の復興

平成になり、地元有志で「米岡芝居研究会」が組織され、『米岡芝居』の復興を目的に動き出しました。
平成14年には復興した『米岡芝居』の第1回の公演が登米祝祭劇場(登米市迫町)で上演され、
その後数年置きに公演が行われました。
しかし、『米岡芝居』の真の復興は米山町で上演する事であると、
平成25年、久しぶりに米山体育館で手作りの舞台での 公演が行われました。
そして平成28年9月、再び米山で『米岡芝居』の幕が開きます。

平成25年米岡芝居チラシ 小里敵討チラシ

「米岡芝居」これからの課題、継続と人材育成

平成28年米岡芝居独自でみやぎの伝承や逸話などを元に脚本を制作し、
お芝居を創るという形が始まり、隣町の涌谷町に眠る題材「小里敵討」を制作。
スタッフキャストともに、地元だけでなく市内から集まり、
地元である西野地区からの絶大なる協力を得て、舞台を成功させることができました。
しかし、これからの課題はこの米岡芝居を継続し、地域に広めていくことにあります。
みやぎの物語を創り出し、より多くの方に米岡芝居を知っていただくこと。
それが、復興した「米岡芝居」を後世に繋げていく架け橋になると信じています。

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